前回の記事【Disneyと悪魔崇拝】小児性愛者の作品をアニメ化した小児性愛者ウォルト・ディズニーの続きです。
まず、ピーターパンの作者ジェームス・マシュー・バリーの小児性愛者疑惑についてお話したいと思います。
童話ピーター・パンは作者バリーが公園で出会ったデイヴィス家の息子たちのために作ったお話です。ピーター・パンの名前“ピーター”はデイヴィス家の三男ピーター・デイヴィスの名前からつけられましたが、ピーター本人はピーター・パンのモデルだと言われることをひどく嫌がり、小説については”terrible masterpiece(最悪の代表作)”とまで言っていたそうです。
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アーサー・ルウェイン・デイヴィスと、ジョージ・デュ・モーリアの娘シルヴィアの夫妻、そしてその5人の息子ジョージ、ジョン(ジャック)、ピーター、マイケル、ニコラス(ニコ)のルウェイン・デイヴィス家はバリーの文学に重要な役割を担った。
1897年、バリーはケンジントン・ガーデンズでナニーのメアリー・ホジソンと共にいたジョージ、ジャック、ピーターと出会ったことで一家と知り合いとなった。近所に住んでおり、しばしばセント・バーナードのポーソスの散歩にケンジントン・ガーデンズに行っていた。耳や目を動かしたり、物語を話して少年たちを楽しませていた。12月に一家のディナー・パーティに招待されるまでシルヴィアとは面識がなかった。シルヴィアはバリーに、ピーターは父の小説『永遠に愛せよ(Peter Ibbetson )』から名付けたと語った。
バリーはデイヴィス家に頻繁に訪れるようになり、バリーもシルヴィアもほかに結婚している人がいるにも関わらず、バリーはシルヴィアとその息子たちと仲良くなっていった。1901年、バリーはデイヴィス一家をブラック・レイク・コテージに招待し、少年たちに海賊アドベンチャー『The Boy Castaways of Black Lake Island 』を演じさせて撮影し、写真絵本を2部製作し1部をアーサーに贈ったが、電車に置き忘れてなくしてしまった。現在、イェール大学図書館に1部が残っている。
ピーター・パンのキャラクターはジョージとジャックを楽しませるために作られた。バリーは彼らの弟ピーターは空を飛べると語った。赤ん坊は生まれる前は鳥で、親たちは赤ん坊が飛んでいかないように託児所の窓に格子をつけたのだと主張した。ここから少年が空を飛べる物語に発展していった。
1907年、アーサーが亡くなり、「ジムおじさん」と呼ばれるバリーがデイヴィス一家の経済的支援をするようになった。バリーの『ピーター・パン』などの作品から受ける収入は、一家の生活費や教育費をまかなうのに充分であった。
1910年、シルヴィアが亡くなり、バリーはシルヴィアと婚約していたと主張した。シルヴィアの遺言にはそのことについて全く触れられていなかったが、バリーには母エマ、兄ガイ・デュ・モーリア、アーサーの兄弟コンプトンと共に少年たちの管財人および後見人になってくれるよう記されていた。少年たちの保護者としてバリーに対する信頼感が記され、少年たちに伯父らと同様バリーに信頼、誠意をもって接し、正直であることを求めた。
シルヴィアは、ホジソンにナニーを続けさせてホジソンの姉妹「ジェニー」にホジソンの補佐を頼むと記したが、数ヶ月後に非公式ではあるがシルヴィアの家族のためにこの遺言を複製する際、バリーはシルヴィアから自分が呼ばれていた「ジミー」に書き換えた。バリーとホジソンはあまり仲が良くなかったが、少年たちが成長するまで共に代理親としてなんとかやっていった。
バリーはデイヴィス家の少年たちと出会う前、そして彼らが成長した後もほかの子供たちと友人となっており、ペドフィリアの疑いがあった。小説『小さな白い鳥』では少年が寝る前に服を脱ぐのを主人公が手伝い、少年の求めに応じて一緒に寝る描写があった。しかしバリーが子供と性行為があった証拠はなく、当時それが疑われたこともなかった。デイヴィス家の末息子ニコはバリーに不適切な行為はなかったとし、「ジムおじさんが男性、女性、子供、誰に対しても不適切な行為があったとは全く考えられない」「彼は純朴で、だからこそ『ピーター・パン』が書けた」と語った。デイヴィス家の少年たちとバリーの関係は、少年期、青年期を過ぎても良好であった。
1912年、「メイ・モーニング」のために夜中に秘密裏にケンジントン・ガーデンズにピーター・パン像が建てられた。像はマイケルがピーター・パンの扮装をした古い写真をモデルにしたとされた。しかし彫刻家ジョージ・フランプトンは他の子供をモデルとしたと語り、バリーは落胆した。
バリーは少年たちのうち2人が20代になったばかりで死別し悲嘆に暮れた。1915年、第一次世界大戦でジョージが亡くなった。1921年、寄宿学校、大学に進学しても毎日書簡を交わしていたマイケルが21歳の誕生日1ヶ月前に友人ルパート・バクストンと共にオクスフォード近くの危険で知られたサンドフォード・ロックで溺死した。バリーの死から数年後、ピーターは家族の手紙などを集めて自身のコメントを追加して資料を編集した。完成直後、ピーターは電車に身を投げて自殺した。
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五男のニコが否定しているのだから、バリーはペドフィリアではないのではないか、と思えなくもないですね。
が!しかし、それにしては怪しすぎる点がいくつもあるので紹介していきたいと思います。
まず以下↓が5人の息子たちの父・アーサー・ルウェリン・デイヴィスのWikipediaからの抜粋です。
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1897年、保育園児のジョージとジャックは赤ん坊であったピーターとナニーのメアリー・ホグソンと共にケンジントン・ガーデンズに出掛けた際バリーと出会った。1898年、新年会のディナー・パーティにおいてデイヴィスと妻シルヴィアはバリーと妻メアリーと初めて対面し、シルヴィアはバリーとの友情を感じた。当初デイヴィスはシルヴィアと息子たちがバリーとの友情を深めることに感心せず、子供たちほどバリーに友情を感じなかったが、それ以降も関わり続けていた。
デイヴィスはバリーがデイヴィス邸で長時間過ごすこと、子供のいなかったバリー夫妻のために共にバリー家所有のコテージを訪問することを許諾した。あるホリデー期間中、2家族は共に過ごし、バリーは少年たちの冒険の多くの写真を撮影し、写真絵本『The Boy Castaways 』を編纂した。2冊のうち1冊をデイヴィスに寄贈したが、デイヴィスは電車でなくしてしまった。
1901年、バリーの小説『小さな白い鳥』が出版された。シルヴィアに似た女性とその息子でジョージの年齢の少年が、バリーのような男性と友人となる物語である。1904年12月、デイヴィス家の息子たちに着想を得たバリーの戯曲『ピーター・パンあるいは大人になりたがらない少年』が初演された。1906年、小説『ケンジントン公園のピーター・パン』には『小さな白い鳥』のピーター・パンが再び登場し、バリーは「シルヴィア、アーサー・ルウェリン・デイヴィスそしてその息子たちであり私の息子たちに捧ぐ」と記した。
1904年、バリーの戯曲の初演と同じ年にデイヴィス家はロンドンからハートフォードシャーのバーカムステッドにあるエリザベス朝様式のイーガートン・ハウスを購入し転居した。
1906年、デイヴィスは頬が腫れあがってきていることに気付き、それが悪性肉腫と判明した。2回手術を受け、上顎、口蓋、頬骨、涙管のほとんどを除去した。人工の顎を装着したが、見た目は変形し、話すこともできず、癌を全て除去することもできずに激痛が残った。小説や脚本で裕福となったバリーはデイヴィスの医療費を肩代わりし、特に最期の数ヶ月間は頻繁に見舞っていた。デイヴィスはピーター宛ての手紙にバリーについて「我々のとても良い友人」と記した。家族はそれぞれ2人がいかに親しくなっていったかを語っている。1907年4月17日、デイヴィスは44歳でイーガートンにて亡くなった。
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次に母シルヴィア・ルウェリン・デイヴィスのWikipediaからの抜粋です。
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1898年、デイヴィスはディナー・パーティでバリーと出会い、息子3人がケンジントン・ガーデンズでバリーと頻繁に会う友人となっていたことを知った。バリーはデイヴィス家で過ごすことが多くなり、バリーは「ジョスリン」と名付けたペットをデイヴィスに贈るなどデイヴィスとバリーは親しくなっていき、バリーとその妻メアリーと共にホリデーを過ごした。デイヴィスは息子たちがバリーとの友情を深めることを奨励した。
1907年、夫アーサーが頬の肉腫で亡くなった。デイヴィスおよび息子たちはバリーから経済的および感情面での支援を受けた。バリーの離婚後、バリーとデイヴィスはさらに親しくなっていったが結婚はしなかった。デイヴィスは手術不可能な肺癌にかかり、1910年に亡くなった。
死の直前、デイヴィスはナニーのメアリー・ホグソンが息子たちの世話を続けること、バリーがこれまでと変わらず息子たちを助けてくれることを願うと記した。母エマ・デュ・モーリエ、兄ガイ・デュ・モーリエ、アーサーの兄弟クロンプトン・ルウェリン・デイヴィスと共にバリーに息子たちの後見人となってくれるよう依頼した。デイヴィスの死後、バリーは少年たちにデイヴィスと婚約していたと語ったが、ジャックとピーターはこれに懐疑的であった。
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そして以下↓はルウェリン・デイヴィス家の息子たちのWikipediaからの抜粋です。
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1907年、イーガートンにて父アーサーが唾液腺肉腫で亡くなり、母シルヴィアは息子たちを連れてロンドンに戻ったが、1910年、肺癌で亡くなった。夫妻の病気の進行に伴い、バリーは経済的支援を含み、一家とより関わるようになっていった。シルヴィアが亡くなると、バリーはシルヴィアの母エマ・デュ・モーリエ、シルヴィアの兄ガイ・デュ・モーリエ、アーサーの兄弟コンプトン・ルウェリン・デイヴィスと共に少年たちの管財人および保護者となった。メアリー・ホグソンはナニーを続けたが、バリーとの不和、ジャックの妻との対立が深まり、少年たちが10代、20代となったのを機に辞職した。小説家および脚本家として成功していたバリーは裕福だったため少年たちが独立するまで住居、教育、経済的支援を施した。
第一次世界大戦に突入し、すでにイギリス海軍に入隊していたジャック、イギリス陸軍に志願したジョージとピーターは出兵した。1915年、ジョージは戦地で亡くなった。1921年、マイケルはオックスフォード大学で親友と共に溺死した。1960年、ピーターはいくつになっても「本物のピーター・パン」と呼ばれることに辟易し、個人的トラブルも相まって自殺した。
バリーとの関係
少年たちのバリーとの関係性は多様であった。ジョージとマイケルはバリーととても親しく、2人の死はバリーに大きく影響した。ジャックは、父アーサーが病気になると父親の座をバリーが奪ったように感じて若干の敵意を持った。ピーターはどちらの感情も持ち合わせていたが、ニコはバリーを慕っていた。
現代において、バリーと少年たちとの性的関係が疑われることがあるが、証拠もないばかりか当時疑われたこともなかった。父アーサーがバリーと少年たちとの関係でトラブルになったことはあるが、それは父親として息子たちとの関係を邪魔されたと感じたことであり、性的なことではなかった。
ニコは成人後、バリーによる不適切な行為や意図は全くなかったと語った。1978年、アンドリュー・バーキンによる伝記において、ニコは「ジムおじさんが男性、女性、子供、誰に対しても不適切な行為があったとは全く考えられない」「彼は純朴で、だからこそ『ピーター・パン』が書けた」と語った。1976年、10代の頃マイケルと親友であったバイセクシャルの保守党議院ロバート・ブースビーはインタビューにおいてマイケルとバリーの関係は不健全だったと語ったが、性的な意味合いに関しては否定した。
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つまりこういうことですね↓
少年たちとバリーとの関係でトラブルになっていた父親は、バリーと子供たちの出会いから10年後には死亡。
デイヴィス家は父アーサーが亡くなる3年前に引っ越をしていて、引っ越しから2年でアーサーが病気になり、同じ年、つまり1906年に出版された「ケンジントン公園のピーター・パン」では“シルヴィア、アーサー・ルウェリン・デイヴィスそしてその息子たちであり私の息子たちに捧ぐ”とアーサーの子供たちを勝手に自分の息子宣言。
自身は1909年に離婚していて、“医療費を肩代わりし頻繁に見舞いにも行っていた”ほどの仲のアーサーが亡くなった後はアーサーの妻シルヴィアと婚約していたと主張。しかしバリーと付き合いの長い上の子供たち(次男ジャックと三男ピーター)はそれに懐疑的で、シルヴィアの遺言にも婚約については触れられていない。ジャックは父親の座をバリーが奪ったと感じ敵意すら持っていた。シルヴィアは1910年に死亡。
バリー曰く「婚約」していたシルヴィアは遺言で子供たちの面倒をナニーのメアリー・ホジソンとその姉妹ジェニーに託したにも関わらず、バリーはシルヴィアの家族に遺言を複製する際勝手に「Jennyジェニー」の部分を自分の名前「Jimmyジミー」に書き換える。バリーと“不仲だった”メアリーは子供たちが20代になると辞職した。
どのみち5人もの子供を経済的に支えられるのはバリーだけだったという理由でバリーが子供たちを引き取ったそうですが、怪しすぎませんか。
デイヴィス家の息子を自分のものにしたいバリーの都合のいいようにあまりにも事が進んでいる気がするのですが、、、考えすぎでしょうか。
バリーの一番のお気に入り四男マイケルは、毎日バリーと手紙を交換していたそうです。マイケルは同性愛者で、20歳のときに親友で恋人のルパート・バクストンと溺死。心中が疑われています。
------------(以下、こちらから転載)
1907年に父が、1910年に母が亡くなり、バリーがデイヴィスを含む兄弟たちの後見人となった。デイヴィスが成長し進学で家を出た後、特に1915年、第一次世界大戦で兄ジョージがフランドルで戦死した後もバリーと親しかった。のちに弟ニコはマイケルとジョージはバリーと一心同体であったと語った。デイヴィスはイートン・カレッジに進学したがホームシックにかかり、「ジムおじさん」と呼ぶバリーと毎日手紙を交換していた。また、子供の頃から悪夢に悩まされていた。友人は多く、芸術や作詩を含む学業に秀で、「秀才」と呼ばれていた。
大学卒業後
イートン・カレッジ卒業後、オックスフォード大学クライスト・チャーチに通い、バリーと定期的な文通を続けた。パリ大学で芸術を学ぶことを決意したが、オックスフォードに戻った。イートン・カレッジ時代から続く友人も複数いたが、4代目準男爵トーマス・バクストンの息子でハーロー校出身のルパート・バクストンととても親しくなった。2人は方時も離れることができず、大学にいる間も休暇中も共に過ごした。バクストンも作詩をし、演劇にも興味があった。バクストンは、バリーが会ったことのあるデイヴィスの数少ない友人の1人であった。
1976年、イートン・カレッジとオックスフォードでデイヴィスと親しかった保守党議員ロバート・ブースビーはデイヴィスの関係についてインタビューを受けた。新聞に同性愛者だと報じられたデイヴィスは実際に同性愛者だったのかと聞かれ、ブースビーは「難しい。そうだったかもしれない」と応えた。さらに「マイケルに彼女はいなかったと思うが、我々の関係は同性愛ではなかった。一時期、マイケルと、友人のロジャー・センハウスはそうだったと思う」と語った。ブースビーはデイヴィスとバクストンの関係を嫌っていたとされる。ブースビーはデイヴィスと代理父バリーの関係は不健全だと批判していたが、性的なことに関しては否定した。ブースビーはデイヴィスとバクストンには性的関係があったと語った
21歳の誕生日直前、デイヴィスとバクストンはオックスフォードから数マイルのテムズ川のサンドフォード閘門近くの堰の下流で溺死した。
デイヴィスとバクストンの親密さから心中が疑われた。この場所は危険な水流で有名であり、警告文や19世紀の被害者への追悼が目立つように掲げられていた。それでもデイヴィスとバクストンは以前にもここで泳いでいた。
水深20から30フィート (6から9m)であるが穏やかであった。バクストンは水泳が得意であったが、デイヴィスは水を怖がり上手に泳ぐことができなかった。検視によると、1人は座っていた堰の岩から、泳いでいるもう1人のところに泳いでいこうとしたがうまくいかず、泳いでいた人が助けようとした。しかしそれぞれの頭を検視した際、もがいた様子は見られなかった。検視の結果、デイヴィスは事故で溺死し、バクストンはデイヴィスを助けようとして溺死した。
『オックスフォード・マガジン』は2人の死亡記事で「2人の学生の死に広く深く追悼し、悲しみが消えることはないだろう。2人は親しい友人で、死が2人を分かつことはない。我々は彼らを忘れることはない」と記した。
1年後、バリーはデイヴィスの死について「私の人生が終わったようだった」と記した。
兄ピーター、弟ニコ、バリーはデイヴィスの死に自殺の疑いがあることを後で知った。1976年、ブースビーはバクストンについて、デイヴィスとの関係で自殺願望があったと語ったが、バクストンがデイヴィスを助けようとして衝動的に共に潜ったのか、元々自殺するつもりであったのか確証はないとした。
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そして以下がマイケルの8歳の誕生日前日にバリーがマイケルに送った手紙の内容です。
“I wish I could be with you and your candles. You can look on me as one of your candles, the one that burns badly – the greasy one that is bent in the middle. But still, hurray, I am Michael’s candle. I wish I could see you putting on the redskin’s clothes for the first time… Dear Michael, I am very fond of you, but don’t tell anybody.” (詳しくはこちら→The True Story Behind Peter Pan Is Crazy & A Little Creepy(英語))
仮に“私はマイケルのキャンドル”うんたらが友人の息子に対してのものすごく独特な愛情表現だったとして、「Dear Michael, I am very fond of you, but don’t tell anybody(マイケル、君のことが大好きだよ。でも誰にも話さないでくれ)」などと、8歳の子が好きだということを口留めする必要はあるのでしょうか・・・?
マイケルが子供のころから悪夢に悩まされていたのは、こんな手紙を書いてくる人がそばにいたことが原因では?
マイケルとバリーの手紙は三男のピーターが処分(隠滅?)したためあまり残されていません。ピーターは家族のメモや書簡を集めていて、マイケルの死に関する資料も扱っていたそうで、2人の手紙を始末した後電車に飛び込んで自殺してしまいます。手紙を消したことに対するピーターのコメントは“They were too much”のみ。
世に残したくないくらいの内容だったのではないでしょうか。
バリーのペドファイル疑惑は主人公を「ピーター・パン」と名付けたことにもあります。
“ピーター”はピーター・デイヴィスから取ったわけですが、“パン”はギリシャ神話に出てくる半人半獣のパンが由来しているとのこと。
ギリシャ神話=悪魔話ですので
(*詳しくは「天照大神」と「スサノオ」の正体。またはルシファーの正体。彼らこそが悪魔の三位一体です。 ←こちらの記事をどうぞ)
当然パンも悪魔なわけですが、なんとパンはバフォメットのモデルだそうです。つまりパンはイルミナティにとって、とても重要な悪魔だったわけです。
------------(以下、こちらから転載)
パーンのトレードマークである笛に関わる有名な伝説がある。シューリンクス(Συριγξ、Syrinx)はアルテミスの侍女で、アルカディアの野に住む美しいニュムペーだった。サテュロス他の森に住むものに愛されていたが、彼女は彼らを皆軽蔑していた。ある日、狩りから彼女が帰ってくるとパーンに会った。アルテミスを崇敬し処女のままでいたいと思っていた彼女はパーンのお世辞を聞かずに逃げ出したが、パーンは川の土手まで追いかけて行って彼女を捕えた。水中のニュムペーに助けを求める余裕しかなく、パーンが手を触れた時、彼女は川辺の葦になった。風が葦を通り抜け、悲しげな旋律を鳴らした。パーンはニュムペーを讃え葦をいくたりか切り取ると楽器を作り「パーンの笛」(パーンパイプ、パーンフルート、つまり古代ギリシア語でシューリンクス、Syrinx)と呼んだ。
エーコー(Ηχω、Ekho)は歌と踊りの上手なニュムペーであり、全ての男の愛情を軽蔑していた。好色な神であるパーンはこれに腹をたて、信者に彼女を殺させた。エーコーはバラバラにされ、世界中に散らばった。大地の女神ガイアがエーコーの肉片を受け取り、今もエーコーの声は他の者が話した最後の数語を繰り返している。エーコーとはギリシア語で、木霊を意味する。別の伝承では、はじめエーコーとパーンの間にはイアムベー(’Ιαμβη、Iambe)という娘がいた。
パーンはピテュス(Πιτυς、Pitys)というニュムペーにも惚れた。ピテュスは彼から逃げようと松の木になった。
山羊は性的な多産のシンボルであったが、パーンも性豪として有名であり、しばしばファルスを屹立させた姿で描かれる。ギリシア人はパーンがその魅力により、処女やダフニスのような羊飼いを誘惑するものと信じていた。シューリンクスとピテュスでしくじりはしたが、その後、ディオニューソスの女性崇拝者であるマイナデスをたらし込むことには成功し、乱痴気騒ぎの中で一人残らずものにした。これを達成するため、パーンは時に分身してパーン一族(Panes)となった(サテュロスを参照)。
パーンとアポローン
ある時、パーンは竪琴の神アポローンと音楽の技を競うことになった。トモーロス(トモーロス山の神。オムパレーの夫)が審査員となった。パーンは笛を吹き、田舎じみた旋律はパーン自身とたまたま居合わせた追従者ミダースを大変満足させた。次いでアポローンが弦を奏でると、トモーロスは一聴、アポローンに軍配を上げたのである。ミーダス以外の誰もが同意した。しかしながらミダースは異議を申し立て不公正じゃないかと糾した。これに怒ったアポローンはこのような下劣な耳にわずらわされないよう、彼の耳をロバのそれに変えてしまった(→マルシュアース)。
キリスト教文学や絵画に描かれるインキュバス(男性型夢魔)の悪魔風イメージ、サタンの角と割れた蹄のイメージは、大変に性的であるパーンのイメージから取ったものであると考えられている。
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本当にバリーがデイヴィス家の子供を大切に想っていたのなら、性的なシンボルにもなっていて処女や羊飼いを誘惑する淫乱で下品な悪魔の名前をピーターと組み合わせて主人公の名前にするでしょうか。
そしてディズニーもパンが悪魔だと分かっていたからこそピーター・パンをアニメ化したのかもしれません。
現にディズニー版のピーター・パンもとんがった耳、山羊のように細い足、持っている笛、としっかりパンの特徴を捉えています。
というより、ディズニーは、ピーター・パンを制作するかなり前に悪魔パンが主人公の短編アニメまで制作しています。
1930年公開のシリー・シンフォニーシリーズのPlayful Panです。(邦題は“森の妖精”ですが、妖精も悪魔ということです。だからティンカーベルがピーターパンの友達なんですね。ちなみにベルはバアル(悪魔)のことです。)どれだけパンがお気に入りなのでしょうか。
で、このパンをギリシャ人はエジプト神話のミンとかいう神(ではなくて悪魔ですが)と同一視したそうですが、このミンもとても下品な悪魔です。
まぁ悪魔は全部下品なんですけども、あまりにも下品なので気になる方だけこちらの→リンク先で確認してください。
こんなものを神として拝んでいた古代エジプトも悪魔崇拝が行われていた地でした。詳しくは以下の記事をご覧ください。
- 日本と古代エジプトと悪魔崇拝のつながりが一発で分かる幾つもの物的証拠。
- 古代ケルトと古代エジプトと古代日本の幾多もの文化的共通点と、日本がドルイド教から誕生したという幾つもの証拠。
- 2020年東京五輪のエンブレムは悪魔のシンボルだった!!(そこに隠された生長の家とフリーメーソン、エジプト神話と日本神話)
ディズニーは更にギリシャ神話を広めるために、1997年に映画ヘラクレスを制作しましたが、その映画に出てくる「パニック」というキャラクター、パンはPANICの語源ですのでパンと、もしかしたらミン、どちらもモデルかもしれません。
子供に好かれそうな?おっちょこちょいのキャラクターですが、そうやって実は悪魔だということを隠して子供たちにうけるようにアレンジして洗脳していくやり方がまさにイルミナティであり、本当に悪質です。
また、ヘラクレスをヒーローに鍛えるフィル(ピロクテテス)というキャラクターも、好色なところも外見もモデルはパンだと思われます。Playful Panのパンにもとても似ていますしね。
このディズニー版ヘラクレスは、「ギリシャ神話と全然違う!完全にディズニーのオリジナル版だ!」なんて批判も多かった作品ですが、ギリシャ神話はどこまでも淫乱で下品な話ですから、アレンジするしかなかったのでしょう。子供に見せるためにはまずは親にディズニー=子供に見せてもよい健全な映画と信じさせなければいけないわけですし、ゼウスは神で、ヘラクレスはヒーロー、バフォメットと同じ山羊のような外見のフィルはいい奴だと子供を洗脳できればディズニーとしては良かったのではないでしょうか。
ゼウス=サタンことです。詳しくは以下の記事をご覧ください。
また、ゼウス=ニムロド=バアル=スサノオのことであり、とにかく同じ悪魔です。
*↑キューピッドも、ニムロドの別名になっていますが、正確にはニムロドの生まれ変わり(という設定)のタンムズのことだと言われています。詳しくは次回の記事でお話します。
この映画ヘラクレスでは悪魔ゼウスに向かってヘラクレスが祈るシーン↑なんかもありますが、そうやって作品を通してギリシャ神話は悪魔の話なのに神の話だと洗脳していたわけです。
ところで、このような淫乱で下品な悪魔を拝んでいた古代ギリシャでは「少年愛」は「市民の義務」だったそうです。
------------(以下、こちらから転載)
少年愛としては、古代ギリシアの「少年愛(パイデラスティア paiderastia )」が著名であるが、これは当時の代表的なポリスであるアテナイでは、暗黙に認められた市民の義務であった。アテナイに較べ、より戦士社会として厳格な文化や制度を持っていたスパルタにおいては、少年愛は男性市民(国民皆兵制のスパルタでは、それは戦士であることを意味した)にとって法文化された義務であった。
古典ギリシアにおける少年愛における「少年」は、思春期またはそれより若い年代の少年(パイス, παις )ではなく、むしろ戦士としての訓練を受ける青年(エペーボス)であったが、これは文化制度としての「少年愛」での建前であった。(古典ギリシアの少年愛は、原義としての「エペーボピリア」に近いが、10代はじめの少年との関係も含んだので、「青年愛」許りとは言い切れない)。
プラトンは「徳(アレテー)」について語っているが、「アレテー(arete, αρετη )」とはギリシア語では、「優秀性」なり「卓越性」という意味がある。知性や知識において、また戦士としての肉体の素晴らしさや勇気、戦闘技能の卓越性、更に弁論の巧みさや、指導力を持ち、道徳的にも優れた家柄の良い「男子市民」が「アレテーを持つ人」である。アレテーを若い男性、すなわち、青年・少年に授けるための文化制度がギリシアの「少年愛」であった。またこれが社会の「制度的範型としての少年愛」である。
古典ギリシアの少年愛においては、愛する年長の男性を「エラステース(erastes, εραστης )」(念者と訳されることも)と呼び、愛され、アレテーを授けられる対象となる青少年を「エローメノス(eromenos, ερωμενος )」(若衆と訳されることも)と呼んだ。
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全く意味が分かりません。
で、少し話が変わりますが、美輪明宏の愛人としても有名な三島由紀夫はこのようなモラルが崩壊した古代ギリシャに憧れを抱いていました。
↑WIKIPEDIAに書いてありますが、三島由紀夫の祖母夏子は12歳から17歳で結婚するまで有栖川宮熾仁親王に行儀見習いとして仕えていたとのこと。
有栖川宮熾仁の落胤といえば大本教のオカマ教祖・出口王仁三郎であり、三島由紀夫はその大本教から派生した生長の家の信者。
そして生長の家のロリコン教祖・谷口雅春は10歳の少女を愛人にしていた小児性愛者であり、そんな教祖を持つ生長の家の施設では児童に対して性的虐待や暴行が行われています。
出口王仁三郎や谷口雅春ら天皇家一族は李家の末裔、つまり代々悪魔を拝んできたユダヤ人の末裔だったことが明らかになったのですが、YOUTUBEで一生懸命ギリシャ神話を宣伝しているホモ疑惑のある中田敦彦も李家の末裔だということが暴かれましたので、以下の記事と動画をまだご覧になっていない方はぜひご覧ください。
デマを流す中田敦彦の正体!!(上級国民+李家+田布施+板〇退〇の子孫!!)
*追記
中田敦彦もやはり大本教信者でした。詳しくは以下の動画をご覧ください。
ただ単に悪魔崇拝者たちが自分たちが拝んでいる悪魔の話を神の話だと偽って庶民を騙し、広めたがっているだけだということが分かったところで、最後にイッツアスモールワールドの写真を紹介したいと思います。
以下の写真は東京ディズニーランドにある、2018年にリニューアルされたイッツアスモールワールドのギリシャの場面です。
左奥の「笛を持った人形と羊」でパンを表しているのではないかと思ったのですが、問題はこれだけではありません。
ヘラクレスの人形が持ち上げている柱の上の三角部分を見てください。
そして以下が小児性愛者たちが暗号として使用しているシンボル&ロゴです。
多くの人がイルミナティの魔法から解かれることを願います。
次回は悪魔の祭典を普及する悪魔崇拝者たち《オリンピック・バレンタイン・イースター・ハロウィン・クリスマス》です。
以下の記事もお勧めです。
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